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【特集・3/11を忘れない】塩釜FC小幡忠義理事長インタビュー ~被災地救援を支えた塩釜FCの絆~(前編)

text by 木村元彦 photo by Tadayoshi Obata

手つかずのガレキの山が延々と続く

 仙台駅前からたった20分車で走っただけで到達する六郷中のその奥、そこでは未だに手つかずのガレキの山が延々と続いていた。自然の前で人間はいかに小さいか。科学者として人間として、村松は「3月11日から間違いなく人生観が変わった」という。

 塩釜FCの理事長、小幡忠義はそのとき、グラウンドのある伊保石牧場にいた。経験したことのない大きな縦揺れに驚愕を禁じ得なかった。余震に足をとられながら、塩竈駅前の自宅事務所に戻ってみると室内は書棚、家具が四方に倒れ、書類やビデオ、事務用品が散乱している。すでに電気と水道が止まっていた。携帯も繋がらず、窓から外を見ると人々が足早に公衆電話に並び始めるのが見えた。

 街中が騒然とした雰囲気の中、妻と娘が切り盛りする一階のカフェ・アトリエゴールに見知らぬ子供たちが青い顔で訪ねてきた。「すみません、タカダイってどこですか?」スクールバスを下ろされた小学生が、屋外放送の「津波の恐れがあるので、高台に避難してください」というアナウンスを聞き、途方にくれて店のドアを押したのである。「ここは大丈夫だから。ずっといていいよ」すぐに招き入れた。

 夕方になっても灯がつかないので周囲は闇に包まれるが、仙台港の石油基地で火災が起きたため、空の一端は赤々と燃えている。小幡は所属選手たちの安否確認に乗り出す。消防車のサイレンが夜中ずっと鳴り止まなかった。真っ暗な中で情報が人づてに入って来た。「荒浜ではかなりのご遺体が上がっているらしい」


自宅(クラブ事務所を兼ねる)の1 階にあるカフェ「アトリエゴール」(奥様が経営)には、続々と各地から支援物資が届けられた。震災後は避難してきた人やボランティアも寝泊まりした。

 不安な一夜が明けると、塩釜FCがその真価を発揮しだした。東日本大震災を知った全国の人々が、支援物資をこのクラブに届けに来たのである。定期戦を組んできたクラブは言うに及ばず、たった一度練習試合をしただけのチーム、あるいは小幡が講演で回った地方の組織、更に言えばサッカーと全く関係の無い一面識も無い人々が、「東北へ行くなら小幡の所へ運べ」というアドバイスを受けて次々に訪ねてきた。埼玉で青果業を営む会社からは10トン車で果物と野菜を運んできた。

 秋田や山形のサッカー協会からも物資が届き、遠く九州・宮崎からトレーラーで来た人もいた。小幡が恐れたのは、支援物資をそのままにしておくと略奪の対象になるのではないかというものだった。マスコミは報道しなかったが、物のある所からの盗難は発生していた。コンビニから食料品を収奪したり、ご遺体から指輪を盗んだりという事件が起こっていることを警察から聞いていた。そこで、自宅事務所を即座に開放する。

 一階のカフェは営業を休止し、震災直後から、支援物資の倉庫、そしてかけつけたボランティアや被災者たちの宿舎になった。アパートを借りた者もいたが、ライフラインがストップしたため食事には不自由する。プロパンガスの小幡家は朝から大人数の炊き出しに追われた。8時半にボランティアやスタッフはカフェに集まってまず食事、そこから作業に向かっていった。

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