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Jリーグ 12年前

【特集・3/11を忘れない】支援活動から思索する未知のサポーター像(後編)

text by 清義明 photo by Kenzaburo Matsuoka

 そこに、次々とクラブチームのサポーターの証をつけたトラックが横付けになる。名古屋、浦和、大宮、そしてFootball saves Japan。「サポーターならテレビやインターネットじゃなくて現場だろ!」そんなアジテーションに共鳴されたサポーターにより、日帰りでボランティアを行う弾丸バスは、合計3回でのべ120名以上のサポーターを現地に送り込んだ。違ったクラブチームのサポーターが集いながら、遠征バスのシートで寝て、津波の汚泥が乾いた地面でメシを食う姿は、いったいなんと表現したらいいのか、全くの未知の光景であった。

 ヘルメットに作業着、長靴にスコップを持った姿は、周囲にJクラブのサポーターだとまったく気付かせないものであった。ところが、3日間の作業が行われるうちに、サッカーのサポーターが来て公民館を復旧させているという話が地域の中で伝わっていき、少しずつその「サッカーの人たち」に直接ボランティアの依頼がやってくるようになっていた。「野球の人はなんにもしてくれないからねえ」と、津波による巨大な漂流物がいくつも突き刺さって家が傾いた家のお母さんから言われた冗談で、初めてこの被災地で笑うことができた。

未知なるサポーターのブリコラージュ

 言葉や意味というものは永遠ではない。むしろ移ろいやすいものだ。言葉が意味を伴って、文化の文脈に根付いたと思えたときに、すでにその意味合いが深いところから変容を始めていることもある。シェイクスピアの昔から、きれいは汚いになり、汚いはきれいになることすらあるのだ。

 サポーターというモジュールが文化伝播による変容を経て、Jリーグのプログラムの中で機能しながら、その意味合いを変化させつつある兆候は至るところにある。

 それはテレビカメラでは撮ることはできず、クラブハウスや練習場にたむろする記者達には近づけない領域で進行している。 もちろんそれはハマトラやFootball saves Japanの活動にとどまることはない。

 役立たずの寄せ集め品(ブリコラージュ)に見えるものが、実は壮大な民族の神話のための必要不可欠なパーツとして機能することを、あるとき文化人類学者は発見した。金銭と引き換えにステイタスを得るファッションとして始まった「サポーター」は、マーケティングの中のブランディングから始まった出自とは別の意味変容を遂げ、何か違ったストーリーとして機能し始めるときが来るのかもしれない。

 いつのまにか、消費社会の奇妙なネーションとして振る舞い始めたサポーターカルチャーは、日本のサッカー神話の周縁として、今までとは違ったポジションにシフトしていくのではないか。もろちん、それを自分は期待しているし、その未知の中にひとつの細胞として息していることに喜びすら感じるのである。

【了】

初出:フットボールサミット第3回

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