不良少年の敗北、救済される敗者
『キューポラのある街』(日活 1962年 浦山桐郎監督)は川口市を舞台にした映画だが、ロケは浦和でも行われていて、当時のこの地域の雰囲気をフィルムに焼きつけている。この映画の中で吉永小百合演じる女子中学生は、浦和にある高校を受験したくて、しかし叶えられない。不良扱いされながらも健気に学費を稼ぐために働く吉永小百合の不幸を、物語的に救済するのは、1962年の埼玉ではユートピア社会主義的な地域コミュティである。
すでに社会主義的な思想が地域コミュニティとして機能しえない現代で、この街の不幸からの救済をテーマとする物語が構成されるならば、吉永小百合は浦和レッズのサポーターになっているに違いない。
不良少年の敗北、救済される敗者。映画では幾度も取り扱われてきたモチーフであるが、それをサポーターはスタジアムで毎試合繰り返し体現し続けている。もちろん、それは少年に限った話ではない。『エリックを探して』(2009年 ケン・ローチ監督 ヨコハマ・フットボール映画祭2011最優秀作品賞)の主人公のように、自分の好きな選手のスーパーゴールに、「一瞬、自分のクソ人生がどこかに消えていた」と呟くことはスタジアムのどこにでもある話なのだ。
外部から導入された文化や思想が、その地域の人々に導入されるにあたって、似たような地域の文化や思想を呼び起こし、それをミックスさせてより深く人々の間に、根付くきっかけとなるときもある。
浦和レッズのサポーターは、あくまでも不良少年の救済と社会的な承認という、もっと映画やロックミュージックで取り扱われるテーマを永遠かのように変奏し続けている。ここでは敗北こそが美学なのである。だから、浦和レッズのサポーターはJ2に降格してからも、いやむしろそこからさらに大きな力を身につけていった。チェ・ゲバラの肖像が描かれた巨大なゲートフラッグに思想性はまるでないだろう。だが、ゲバラはむしろ不良少年の敗北と社会的な承認をもっともよく表彰するイコンだ。
不良少年の救済と社会的な承認というテーマは、外部から導入されたサポーターという文化と融合して、故郷喪失者が集う地方都市の中にフィットした。浦和高校中退の本宮ひろ志の『男一匹ガキ大将』は、ひとりの不良少年が日本中の不良グループの「総番長」になっていく青春ドラマであった。『男一匹ガキ大将』の世界観かのように、乱立するサポーターグループが数々の武勇伝を轟かせ、ひとつの光を放っている。そうして、浦和レッズのサポーターは絢爛とした応援の儀式を繰り広げながら、それ自体が他に影響を与えるサポーターのモデルとなった。