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Jリーグ 12年前

【特集・3/11を忘れない】4/23Jリーグ再開決定までの舞台裏 ~リーグ関係者、44日間のドキュメント~(後編)

text by 井上俊樹 photo by Kenzaburo Matsuoka

おわりに

 以上の原稿は「Jリーグ側から見たリーグ再開までのいきさつ」という一視点から構成したものです。Jリーグ再開にいたるまでの経緯においては、Jクラブ、日本サッカー協会、そしてスポンサードしている多くの企業との意見の擦り合わせが不可欠でした。

 立場が変われば、ものの見方は変わります。例をあげましょう。浦和レッズは鹿島戦でのホーム、アウェイを組み替えることを受け入れました。ヤマザキナビスコは、企業名露出機会の大幅減を受け入れ、今年の大会開催方式をJリーグに一任したことは原稿内で触れました。ヤマザキナビスコカップの放映権を持つフジテレビは、2002年から放映権を獲得し、大会の盛り上げと知名度アップに大きく寄与してきました。しかし今回の大会方式の変更で、実際に放送できる試合数は大幅に減っています。

 誰もが、100パーセント納得できる形でのJリーグ再開は、あり得ませんでした。ただ、この未曾有の事態の中でJリーグ再開というベクトルのもと、それぞれが足並みをそろえたのだ、と追記しておきます。

 原稿中の中西氏事務局長の言葉に「フットボールにはエンターテインメントとしての側面、そしてそれをしっかりとした形で提供するために成立させるためのビジネスとしての側面があります。その両輪がしっかりして初めて、人に勇気や感動、喜びを与えられるコンテンツになると思うんです」というものがありました。

 まさにその通りだと考えます。ボランティアでフットボールは成立しません。フットボールは世界最大のエンターテインメントと言われますが、人々がそれに喜び、悲しみ、ときには人生を投影することすらあるのは、フットボールがしっかりとした大会運営、組織、規約にのっとって行われる真剣勝負だからです。

 1997年、あの「ドーハの悲劇」を経て迎えた「ワールドカップアジア地区予選」の日程をAFCが決定したとき、Jリーグはすでに開幕を迎えていました。Jリーグは、「選手が日本代表に招集され、リーグ戦に出場できなかったチームに対し、一選手あたり0・1ポイントの勝ち点を付与する」という追加の措置を取りました。この追加勝ち点は、99シーズン、からの2部制移行に伴うチーム振り分けポイントとして反映されたもので、年間順位は成績のままでした。

「当時は空気感が違った。ワールドカップ出場という大きな目標に向かって日本サッカー界のベクトルが一つになっていた」という見方は、確かにできるでしょう。

 しかし、この「空気感」が危険です。クラブは当たり前のことを、当たり前に主張することができなかったのですから。97年当時Jリーグは1部制でしたので、年間成績に伴う昇格・降格は存在しませんでした。ただしリーグ最終順位において、各クラブに付与される賞金額は順位が一つ異なるだけで、大きく変わります。当然賞金を得られないクラブも存在したわけです。賞金は翌シーズン以降、より魅力あるチームをファン・サポーターに提供するための資金として運用されることは言うまでもありません。

 今回、3月29日に行われたチャリティーマッチにおいて、「被災地の方が一人でも多く観戦できるように」という主旨のもと、各地であらゆる試みがなされたことは広く報道されていることです。97年のJリーグは、アジア地区予選の最中、日本代表選手不在のまま開催を続けざるを得ませんでした。その日、その試合にしかスタジアムに足を運ぶことができず、代表選手のプレーを見ることができなかったファン・サポーターがいたという事実を忘れてはいけません。お金を払ってスタジアムに足を運んだファンが「〇〇がいれば…」と悔しい思いをしているのです。日本サッカー協会がどういった形で7月の南米選手権に参加するのか、そこで97年の事例を踏まえた「日本サッカーの経験値」を問われることになります。

 2011年4月23日、Jリーグは再開しました。再開にあたり、多くのクラブが規約を越えた条件を受け入れました。すべては、Jリーグを日常に戻すために、各クラブが受け入れたことです。再開の日、多くの人々が、喜び、悲しみ、そして涙を流しました。それは、その日行われた試合がすべて真剣勝負だったからです。「コンペティションとしてのJリーグ」が戻ったからです。

 Jリーグ規約第3章第20条の2に『J1・J2クラブの入れ替え』について、次のように明記されています。

1.J1における年間順位の下位3クラブがJ2に降格し、J2における年間順位の上位3クラブがJ1に昇格する。

 Jリーグ再開とは「その規約に基づいたリーグ戦が再開した」ということです。

 原稿にある通り、中西事務局長は「再開にあたり、被災地、被災クラブにどこまで配慮するのが正しいのか」を臨時合同実行委員会の議論の主題の一つに組み込みました。

 例えば「2011年シーズンに限っては被災地クラブの降格を免除しよう」といった世論があります。しかし、それとこれとは完全に切り離して考えなければならないものです。誰より、今もライフラインの確保に奔走されている被災地のファン・サポーターの皆さんが、それを望んでいないと思います。被災地クラブが目前の公式戦にできるだけ万全に近い状態で臨めるよう、あらゆる手段を尽くすこと。その一点こそが、再開したJリーグに与えられた現時点での至上命題だと考えます。被災地クラブが「特別視」されないようになるまで、全てのサッカー関係者がそれぞれにできる力を尽くすとき、日本サッカー界の底力を証明するときなのだと思います。

 私事で大変恐縮ですが、原稿内に登場する齋藤美和子さんと4月23日の「川崎フロンターレ対ベガルタ仙台」の試合前、等々力競技場のロビーにて偶然お会いすることができました。およそ、8年ぶりの再会でした。心なしか少しやせたようにお見受けした齋藤さんは気丈な笑顔をたたえていました。小さな手でかわした握手は、力強く、温かさに満ちていました。

「頑張らなくちゃね。それしかないんです。ぜひ仙台に取材に来てください。そして、仙台のおいしいものをたくさん食べて、おみやげをいっぱい持って帰ってください。皆さんにそうしていただくことで、仙台はどんどん元気になりますから」と齋藤さんは言いました。

――ああ、齋藤さんはきっと同じことを3月31日におっしゃったんだ。

 一日も早くJリーグ、そして被災地に日常を。この言葉を原稿の締めとさせていただきます。

【了】

初出:フットボールサミット第3回

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