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Jリーグ 12年前

【特集・3/11を忘れない】4/23Jリーグ再開決定までの舞台裏 ~リーグ関係者、44日間のドキュメント~(前編)

text by 井上俊樹 photo by Kenzaburo Matsuoka

西日本の多くのクラブから連絡が入る

 西日本の多くのクラブから「自分たちにできることはないか」という電話が事務局に“かかってきた”。西日本所在のクラブの電話回線状態は関東のクラブよりも、被害は少なかった。西日本のクラブを経由することで連絡体系がスムーズになった。西日本の多くのクラブが、全国のJクラブへの橋渡し役を申し出、各クラブの状況が、東京の事務局へと報告されてきた。

「決して大げさな言い方ではない。あれは、チームワークだったと思います。初動の部分で西日本のクラブの協力がなければ、対応は遅れていたはずです」と中西は語る。

 チェアマンと話をし、翌日の試合中止を決定し、リリースを出したのは17時半過ぎのことだ。「サッカーは人で成り立っている。連絡が取れない人がいる。選手スタッフの安否確認ができない、コンタクトすら取れていないクラブが存在する時点で開催中止決定は当然の成り行きでした」(中西)

 中止発表時点で、横浜FC、ガイナーレ鳥取、そしてベガルタ仙台との連絡が取れていなかった。最後まで連絡が取れなかった仙台の事業部運営課長、齋藤美和子と連絡が取れたのが、22時のことだった。

 ようやく電話によって、か細い一本の線がつながった。齋藤と連絡はついたものの、仙台の選手、チーム関係者の安否については齋藤自身も把握できていなかったという。

 Jリーグ事務局員も帰る手段がなかった。事務局員のほとんどが帰りの交通手段を失った。徒歩で帰宅する者、事務所に残り確認作業に追われる者。

 3月11日という日だけが当たり前のように終わった。時計の針が12時を回り、日付が3月12日に変わっても、先が見えない状況は全くもって変わらなかった。テレビ画面には津波警報を伝える日本地図、交通手段を失って駅に足止めを強いられた人々の姿が繰り返し映し出されていた。時折、乾いたアラート音とともに地震速報のテロップが流れた。

【3月11日・Jリーグ再開、白紙】

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