途惑いの連続だった来日後の数年間
オランダ人のディド・ハーフナーが日本の地に足を踏み入れたのは、バブル景気前夜の85年。日本サッカーリーグ1部のマツダ(現サンフレッチェ広島)を率いていた同じオランダ人のオフト監督から誘われ、コーチ兼選手として妻・ギッダと3歳の長女・ダニエラとともに来日した。当時のマツダには高橋真一郎(現東京ヴェルディコーチ)や木村孝洋(現FCIMABARI監督)、小林伸二(現徳島ヴォルティス監督)といった現日本サッカー界を支える人材がおり、みな親切に接してくれたという。
「だけど日本語が全く分からない。今は漢字とひらがな、カタカナ、ローマ字が一緒に書かれているのをよく見かけるけど、その頃は全然ないでしょ。スーパーマーケットに行っても、何がヨーグルトで何が石鹸かサッパリ分からない。違う星に行ったみたいでした(笑)。本を買ってきて家族3人で一生懸命勉強しましたよ。3~4年経ってやっとだいたい理解できるようになりましたね」
ディドが戸惑ったのは言葉だけではない。80年代の日本サッカーは世界基準とはかけ離れたところにいた。選手たちはオフトの言う「アイコンタクト」「トライアングル」「スリーライン」といったキーワードに触れるのさえ初めてだ。競技場に足を運んだファンの反応もどこかズレていて、ディドにしてみればサプライズの連続だった。
「オランダはパスを正確につないでサイドアタックに持っていくスタイルでしょ。でも日本のお客さんはいい攻めをしても反応がない。僕が70~80mのゴールキックを蹴った時の方が『わーっ』と盛り上がる。野球のホームランみたいに思ったんでしょうね。それには正直、ヘンな気持ちがしました。
マツダの選手たちも、オランダでは8~10歳の子供たちが教わる『アイコンタクト』とか基本を指導されるわけですよね。オフトは何とか分かってもらおうと、ビデオテープを取り寄せて説明したりしてました。みんなカルチャーショックだったと思うけど、オフトのことはリスペクトしてましたね」