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Jリーグ 12年前

浦和レッズは本当に生まれ変わったのか? ~常勝クラブとなるために必要なこと~(前編)

text by 島崎英純 photo by Kenzaburo Matsuoka

2009年シーズンからの2年間は混迷の度合いを深めた

 09年シーズンからの2年間は一層混迷の度合いを深めた。当時のクラブ代表・藤口光紀氏は個人依存戦術からの脱却を模索し、ドイツ・ブンデスリーガのフライブルグで16年に渡り指揮を執ったフォルカー・フィンケを指揮官に迎えたが、新スタイル構築と同時に実力を兼ね備えながらも我の強い選手たちの粛清に着手したことでチーム戦力が大幅にダウンしていく。

 結局09年、10年の2年間にワシントン、闘莉王、三都主アレサンドロ、阿部勇樹、ポンテといったスター選手を次々に放出して、忠実にチーム戦術を全うする選手のみを残して構築を図ったが、小粒になった戦力ではシーズンを戦い抜くことができず、結局フィンケ体制の2年間でもタイトル獲得を果たせなかった。

 そして11年シーズン。浦和のクラブフロントは『浦和の匂いを知っている』という理由から元浦和所属選手でオランダのサッカーコーチングライセンスを有するゼリコ・ペトロヴィッチを指揮官に招聘する。その結末は周知の通り。

 指導者歴に乏しいゼリコ・ペトロヴィッチは、チーム内を掌握できなかったどころか次第にクラブフロントともコミュニケーション不全に陥って途中解任される。最終的にはユースチーム監督から昇格して指揮を引き継いだ堀孝史監督と選手たちによる現場の頑張りでJ1残留を死守し、命からがらシーズンを終えたのだった。

 その間、浦和は10年シーズンに藤口代表から橋本光男代表へとクラブ社長職が引き継がれていた。その橋本代表が精力的に手腕を発揮したのは財政面の整備、いわゆる緊縮財政策だった。クラブは日本全体を包み込んでいた経済不況のあおりでパートナー企業からのスポンサー料が減少しただけでなく、ACL制覇を境に膨れ上がっていたチーム強化費などの影響で、10年シーズンに営業収益が赤字に転落していたのだ。

 これを問題視した橋本代表は抜本的な経費削減に着手して社長就任から1年で黒字化への転換に成功した。しかしその内実は入場料収入が前年度22億6千4百万円から19億6千2百万円、広告料収入が同22億5千6百万円から20億7千4百万円、グッズ収入が同5億7千8百万円から4億9千4百万円などへと大幅減しており、総営業収入は前年度56億2千5百万円から53億8千2百万円へとマイナス2億4千3百万円のダウンとなっていた。

 だが浦和が負った致命的なダメージは、実は数字で表れた収入面ではない。経営スリム化を図るためにサポーターのニーズを度外視し、プロサッカークラブの本質的な役割であるピッチ上の魅力促進に無頓着なことで必然的にチーム成績下降を導いたことが浦和レッズサポーターの逆鱗に触れ、その信用を失墜させたことが大罪だったのだ。

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