なぜ松井に目を付けたのか?
フレイタスはこの「日本対カメルーン」戦のビデオを何度も見返したようで、特にスピードに乗ったドリブルと前線でのボールコントロールの確かな技術を高く評価していたようだ。
当時、スポルティングの右ウイングには、俊足ドリブラーのヤニック・ジャローがレギュラーポジションにいた。スポルティングユース出身で、現ポルトガル代表監督のパウロ・ベントがスポルティング監督時代に、現ポルトガル代表のナニ、ジョアン・モウティーニョ、ミゲル・ヴェローソらと共に頭角を現し、「86年組」(全員1986年生まれ)と呼ばれていた選手である。
さらに、両サイドどちらでもプレーできるマラト・イズマイロフも控えていた。余談だが、このイズマイロフ、2002年の日韓W杯で日本代表がW杯初勝利を挙げたとき、対戦相手のロシア代表のMFとして横浜のピッチに立っていた選手でもある。
しかし、そのイズマイロフは負傷離脱中。両サイドの選手層が手薄になったスポルティングは、新監督に就任したばかりのパウロ・セルジオが[4-4-2]と[4-3-3]システムの併用を標榜したこともあり、戦術オプションを増やすため、2010年夏のメルカード(移籍市場)で新たなウインガーの獲得に乗り出すことを決める。
そこで、白羽の矢が立ったのが先のW杯で活躍し、SDのフレイタスも惚れ込んだ松井大輔だった。
スポルティングと松井の移籍交渉は、松井の代理人がポルトガル人のアレシャンドレ・リベイロだったこともありスムーズに進行した。W杯決勝トーナメント1回戦で日本がPK戦の末、パラグアイに敗れてから一ヶ月を待たずして、7月22日には「松井、スポルティングCPに完全移籍で合意」と日本の各メディアが報じた。
当時、日本にいた私も、旧知のポルトガルスポーツ紙のスポルティング番記者に事の真相を何度も電話とメールで確認した記憶がある。「ア・ボーラ」紙のペドロ・フィゲイレド記者によると、この時点で、松井はリスボン近郊のアルコシェッテにあるスポルティングの育成及び練習施設「アカデミア・スポルティング(スポルティング・アカデミー)」の視察に訪れていたという。
スポルティングが松井と時を同じくして獲得を狙っていたブラジル人FWのボボ(結局、スポルティングと合意には至らずベシクタシュへ移籍)と一緒に「アカデミア」及びホームの「ジョゼ・アルヴァラーデ」スタジアムのメモリアルルームなどを見学したようだ。
残すは、スポルティングと松井の保有権を持つグルノーブルのクラブ間合意だけだったのだが……。