【後編はこちらから】 | 【サッカー批評issue53】掲載
ポイントは日本の環境にどれだけ馴染めるか
多くのJクラブにおいて、外国人選手の活躍度合いによりシーズンの成績が大きく左右されるといって過言ではない。彼らがチームにアジャストし、実力を如何なく発揮できるかを見極めるのは至難の業である。はたして、成功と失敗の分かれ目はどこにあるのだろうか。過去の実例を紐解きつつ、外国人補強のあり方を検証する。
西真田佳典は日本人のエージェント(代理人)の草分け的存在だ。
学生時代、在籍した中央大学サッカー部では同期に早野宏史(解説者)、名古屋グランパスのゼネラルマネージャーを務める久米一正、後輩に金田喜稔(解説者)がいる。
同大学を卒業後、加茂商事に入社。1988年、関連会社のジャパン・スポーツ・プロモーション(JSP)の設立に携わった。JSPはサッカー選手のエージェントのほか、旅行代理店、イベント企画運営を事業とする。
FIFA公認エージェントの資格を持つ西真田は、数々の外国人選手を日本に導いてきた。「トータル250人以上にはなりますね。例えば、ブラジルで発掘したシジクレイは外国人選手の顕著な成功例です」
1997年、当時JFLのモンテディオ山形に加入したシジクレイは、ブラジルで無名の選手だった。年俸は日本円にして約700万、レンタル料300万、しめて1000万に収まる。その後、J1の京都パープルサンガ(当時)にステップアップし、大分トリニータ、ヴィッセル神戸を経て、ガンバ大阪に移籍。2005年、G大阪のキャプテンとして、リーグ初優勝に大きく貢献している。
「ポイントは日本の環境にどれだけ馴染めるか。シジクレイを典型的な例に、Jリーグで活躍する外国人は押し並べて適応する努力をしています。そこでは当然、人間性が重要になる。本人との面談はもちろん、妻帯者の場合はできるだけ家族とも会う時間を作ります。外国人は仕事よりもファミリーが一番ですから」
04年9月、ジェフユナイテッド市原(当時)に所属時、アキレス腱断裂の重傷を負い、ブラジルに帰国していたマルキーニョスを、05年8月、清水エスパルスに移籍させたのも西真田の仕事だ。07年、鹿島アントラーズに移籍したマルキーニョスは、08年に得点王を獲得し、鹿島のリーグ連覇に貢献。史上5人目のJ1通算100得点を達成している。
一方で、手痛い失敗も経験している。近年ではペドロ・ジュニオールの件が記憶に新しい。
07年のシーズン途中、大宮アルディージャに加入したP・ジュニオールは目立った成果を残せず、09年からアルビレックス新潟に移籍する。新潟では開幕から主軸として働き、21試合10得点と結果を出した。そして夏のウインドー(登録期間)が閉まる2日前、ブラジルのエージェントから西真田に連絡が入る。
「ガンバに行きたいという話でした。その頃、ガンバはレアンドロが中東に移籍したばかりで、契約を残す新潟、保有権を持つ大宮にも利益が出る形で移籍が合意に達しました」
09年8月から所属したG大阪で、P・ジュニオールは7試合3得点とまずまずの出来だった。翌年はよりチームにフィットし、大きな成果を残すことが期待された。