ラブは給料を削減して移籍金を上乗せ
こうして、ラブは09年後半は古巣パルメイラスでプレーし、10年前半は生まれ故郷リオで、子供の頃から憧れていたフラメンゴでプレーした。リオ州選手権で14試合に出場して15得点をあげる大活躍で、サポーターの人気を独占した。
「フラメンゴの一員になれたことは、この上ない喜びだった。もう給料なんかいくらでもいいから、ずっとここでプレーしたい、と思った。フラメンゴも僕を気に入ってくれて、CSKAに完全移籍を打診した。でも、ロシア人たちは交渉に応じようともしなかった。やむなく、僕はモスクワへ戻った」
それでも、フラメンゴはラブを諦めなかった。11年3月、移籍金500万ユーロ(当時のレートで約5億7000万円)を提示したが、「お話にならない」とはねつけられる。今年1月初め、年末年始の休暇でリオに戻っていたラブと密かに会ってフラメンゴ移籍の意思を改めて確認すると、オファーを600万ユーロ(当時のレートで約6億円)に引き上げた。しかし、これもあっさり拒絶される。フラメンゴ側が「モスクワへ行って交渉したい」ともちかけても、「時間の無駄だから来なくていい」。取り付く島もなかった。
「フラメンゴは、交渉のテーブルにすら着けないでいた。そこで、僕は『もっと移籍金を上げないとダメだ。彼らは値下げには応じないよ。僕の給料を減らしてもいいから、その分を移籍金に上乗せしてほしい』と伝えた。フラメンゴ側が『わかった。その方針でやってみよう』と言ってくれたので、一緒にモスクワへ向かったんだ」
こうして、1月21日、フラメンゴの役員がラブに「引率」される格好でモスクワへ出発。ラブにギネル会長との会談をセットしてもらって交渉に臨み、最終的に移籍金1000万ユーロ(当時のレートで約9億8000万円)で獲得にこぎつけた。
フラメンゴの粘り強い交渉が実を結んだとも言えるが、クラブの内情を熟知するラブの全面的な協力と身を切る犠牲がなければ、彼は今でもロシアに留まっていたはずだ。