13日、衝撃的なニュースが走った。フラメンゴに所属していたヴァグネル・ラブのCSKAモスクワへの復帰だ。なぜこのようなことが起きたのか? そこにはCSKAモスクワ特有の事情がある。
今回は、フットボールサミット第8回でお届けした『ラブがどうやってロシアから“脱出”を図ったのか』について、本人のコメントをもとに迫った詳細なレポートを掲載する。そして、そこから見えてくるはずだ。本田圭佑がいかに移籍しにくいかが。
通過点としての加入 長く厳しい闘いの始まり
2012年1月27日、リオデジャネイロ南部にあるフラメンゴのクラブハウスで、ヴァグネール・ラブが入団発表のセレモニーに臨んだ。数千人のサポーターが歓声を上げるなか、クラブ会長から手渡された赤と黒の横縞のユニフォームに手を通すと、大粒の涙を流した。
「長く厳しい闘いだった…。フラメンゴが、僕を獲得するため粘り強く交渉してくれた。僕も、CSKAモスクワの会長に何度となく移籍を直訴したし、自分なりに犠牲も払った。これらすべての努力が実って、ようやくこの日を迎えることができた…」
このラブの涙と感極まったスピーチが、「一度入ったら最後、出るのは極めて難しい。まるで監獄か強制収容所のよう」と揶揄されるCSKAの特殊な事情を象徴している。
ヴァグネール・ラブはリオ出身で、子供の頃からフラメンゴの大ファンだった。しかし、フラメンゴをはじめとする地元のビッグクラブからは声がかからず、02年、18歳でサンパウロのパルメイラスの下部組織に入団した。U‐20全国大会の合宿中、宿舎の自室に女性を連れ込んだのが発覚してクラブから追放されそうになる。
チームメートが会長に嘆願してくれたおかげで辛うじてクビがつながったが、このエピソードから「ラブ」の名がついた。敵の最終ラインの裏側に走り込むスピードと高い決定力が特長で、03年にレギュラー・ポジションを獲得。04年6月、移籍金900万ドル(当時のレートで約10億円)でCSKAに入団した。大半のブラジル選手と同様、ロシアリーグは「最終目的地」ではなく、西欧の主要リーグのクラブへ移籍するまでの「通過点」と考えていた。
とはいえ、欧州ビッグクラブへたどりつくためにはまずCSKAで活躍しなければならない。冬には気温が零下15度前後まで下がる厳しい寒さ、難解な言葉、そしてブラジルとは大きく異なる習慣、メンタリティー、プレースタイルに戸惑いながらも、懸命に適応のための努力を続けた。その甲斐あって、04-05年のUEFAカップ優勝と国内リーグ2連覇に貢献した。