エスタディオ・アクサのメモリアルホール。ブラガの歴史を物語る数々のセピア色のパネルとたったひとつの優勝トロフィー(1966年のポルトガル杯優勝)が誇らしげにデコレーションされた空間に、その男は現れた。トレードマークのカーリーヘアーは選手時代そのままだが、はにかみながら手を差し出したその笑顔には現役時代の“闘将”の強こわもて面の面影はなかった。
ポルトガル代表Aマッチ出場110試合、最多の45試合でキャプテンマークを巻いた「黄金世代」のカピタォン(主将)が、かつて在籍した6つのクラブで17個ものタイトルを獲得した“優勝請負人”である事実はあまり知られていない。現在、“戦闘服”をユニフォームからスーツに衣替えし、ブラガのSD(スポーツディレクター)として辣腕を振るうフェルナンド・コウトに話を聞いた。
キャプテンに向いていた熱い性格
──現役時代、数多くのクラブでプレーしましたが、どのクラブが一番印象に残っていますか?
「僕にとってかつてプレーしたすべてのクラブが大切だね。ポルトは18歳でプロへの道を開いてくれて、プロでやっていく自信を与えてくれた。パルマは初めての海外挑戦をするクラブとしては規模が理想的で、不安も感じることなくすぐに適応できた。バルセロナは知っているように、サッカー選手なら一度はプレーしたいと思うメガクラブ。スタジアムの雰囲気はファンタスティックでプレーできたことを光栄に思う。
ラツィオは僕のサッカーキャリアにおいて最も愛着があるクラブだね。それまでは2、3年で移籍を繰り返していたけど、7年間在籍することで地に足を着けてプレーできたし、本当の意味で(ポルトガル)代表に呼ばれるのにふさわしいレベルの選手になることができたクラブだと思う。自分自身もクラブに貢献できたという感覚が強いね。あの頃のラツィオは、会長もやり手でフロントのクラブ運営はしっかりしていた(※注1)から、選手がプレーに集中できたのも大きかったね」
(※注1:1998年、大手食品会社「チリオ」の経営者だった会長のセルジオ・クラニョッティが、イタリアのサッカークラブでは初めて株式を上場。潤沢な資金で多くの有名選手を獲得)
──ひとつのクラブだけを選ぶことはできないということですね?
「すべてのクラブが僕にとってサッカー選手として飛躍するためのきっかけを与えてくれた重要なクラブ。ネガティブな印象を持ったクラブはひとつもないよ」