河崎護の熱意ある指導の下、土台となった高校3年間
3年生になると、本田はキャプテンに就任し、変わらぬサッカーへの姿勢を打ち出しながらも、仲間と協力しながらチームをまとめ上げていった。
「自分のことだけ考えるのではなくて、チーム全体を向上させたいと思っている。出来るだけ俺の意識をみんなに植え付けたいと思って毎日やっている」
当時の彼はこう語っていた。そんな本田に変わらぬ指導を続ける河崎。
「圭佑によく言ったのは、運動量。ボールを持って、周りが動いてくれるからいい、ではダメ。上のレベルに行くと足元だけの選手では通用しません。相手の嫌なところに動いてスペースを見つけてから、ボールを受けて、それで1つの仕事が出来るような、動きの質プラス量を、もっと自分のプレーにプラスしていけということは、圭佑に言い続けました」
河崎のアドバイスを受けながら、本田は星稜で自らの力を磨くことに集中する。高3になると年代別代表にも選出され、Jリーグ数クラブが触手を伸ばすまでになった。精度を増した左足と、身体の強さ、パスセンスとキープ力。そして何よりフットボーラーとしてのメンタリティー。すべてにおいてスケールが増した本田は、卒業後の進路を名古屋に決め、最後の選手権では仲間たちと共に、石川県勢初となるベスト4に食い込んだ。
「常に一緒にツルんでいましたし、よく俺の家に泊まりに来ていましたよ。ただ、人の家の和室を勝手に我が物のように使って、9時とか10時とかに寝て、朝の5時に起きていた。おじいちゃんか、という感じ(笑)。でも、それはすべてサッカーのため。練習、食事、睡眠、すべてをサッカーに繋げるためにどうするべきか。アイツのメンタルの強さ、意思の強さ、向上心、ハングリー精神は本当に刺激になった」(橋本)。
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