イタリアから帰ってきたカズは別人のように優しくなった
数年前、私は東京Vのスタッフからこんなことを聞いている。
「Jリーグバブルで人気絶頂の頃は、クラブハウスで面と向かって挨拶をしても知らんぷり。こちらが頭を下げる横をすっと素通りし、まるで人を人とも思わないような態度でした。そのカズさんが変わったのはイタリアから帰ってきてから。日常の挨拶はもちろん、飲み物の頼み方から接し方まで別人のように優しくなった。あまりの急激な変わり様にみんなびっくりしていましたね」
学ぶということは、変わるということだ。クラブを下支えする身近な人に対する振る舞いの変化は、カズがイタリアで学んできたことのひとつに違いない。坂田の話もこの証言を裏付ける。
「そういった話は多くの人から聞きますね。94年途中のジェノアへの移籍は、自分でスポンサーを付けて行ける環境を作り、向こうから熱望されてのものではなかったから苦労をしたと思う。ケガで十分にプレーできず不本意だったろうけど、彼の人生にとっては非常に有益だったのでは」
一方、海外でプレーすることの厳しさを知る武田はこう語った。
「つらい思いをたくさんしたんだと思いますよ。『ジャポネーゼめ、何しに来やがった』『日本に帰れ、バカヤロー』といった罵声を山ほど浴びたと聞きます。カズさんに限らず、海外に出ると尖っていた部分がいい意味で丸くなるものです」
イタリアは欧州の中でもひときわ人種差別が苛烈な国だ。そこで、アジア人初のセリエAプレーヤーとなったカズの苦労は並大抵ではなかっただろう。
98年6月5日、ワールドカップのメンバーから外れ帰国したカズは北澤とともに成田空港での記者会見に臨んだ。V川崎の森下源基社長はカズと北澤の傷心を慮ってか会見を行わずに帰そうとしたが、当時専務取締役だった坂田は注目が集まる場でしっかり話した方が得策だと主張した。
「記者会見のあと、カズが言ったんです。代表チームを離脱してからしばらく運動ができなかったので、グラウンドに出て汗をかきたいと。私はすぐにヴェルディのスタッフに連絡し、練習の準備を頼みました。その日、チームは午前練習だったので、残っているスタッフはわずかだったんですが」
カズと北澤がクラブハウスに到着すると、驚いたことにチームメイト全員がトレーニングシャツに着替えて待っていた。のちに坂田は、スタッフから話を聞きつけたラモスが選手を集めたのだと知る。
そして、予定されていなかった紅白戦が始まった。
「正直なところ、初めていいクラブだなと思ったね。みんな一度は練習を終え、シャワーを浴びて家に帰っているのに、ふたりのためにわざわざ出てきてくれた。あれほど見ていてうれしい紅白戦はないですよ。あらためて、ヴェルディが存続できるプランを練らなければと思いました。このクラブを絶対になくしてはならない。たとえカズを切ってでも残すことが自分の責任だと」