組織の中の調整役として
鈴木はトップチームのヘッドコーチ時代に、当時の監督だった宮本征勝とジーコとの間で何度も板挟みになるという、常人にはおよそ耐え難い経験を持っている。ジーコにはジーコの哲学があるように、宮本にもデットマール・クラマーから受け継いだ譲れない哲学があった。表立って衝突することはなかったが、それでも両者の間に不穏な空気が流れることはたびたびあったという。そこで調整役となっていたのが鈴木であった。相当にストレスが溜まる役割であったが、この時の経験が今に生きていると当人は回想する。
「間に入って調整しながら、組織として同じ方向を向かせていく。今でもそれが仕事の一番の柱です。ですから、当時の経験は、ものすごく役に立っていると思います」
この「組織として同じ方向に向かせていく」という鈴木の改革がスタートした96年、鹿島はJリーグ初優勝を果たす。以後、15にも及ぶ主要タイトル獲得は、鈴木が強化部長に就任したこのシーズンが起点となっている。
もっとも当時の鹿島は、まだまだジーコの影響力が強く残る時代でもあった。鈴木がジーコの優れた継承者としての本領を発揮するのは、もう少し後の話である。
「(強化部長になって)最初の頃は、ジーコが日本に来るたびに食事に行ったり、夜の付き合いだったり、というのが僕らの仕事になっていました。もちろん、そうした中でいろいろとアドバイスや注意を受けていました」
実際、96年以降の鹿島は、依然としてジーコへの依存度が強かった。99年にゼ・マリオがシーズン途中で解任されると、その後はジーコが代行監督としてチームの指揮を執った。翌00年から5シーズンにわたってチームを率いたトニーニョ・セレーゾも、ジーコの推薦によるものであった。結局、クラブ設立からの10年は、良くも悪くも鹿島はジーコの影響下にあったのである。
「ブラジル路線の礎を築いたのは、間違いなくジーコです。指導する側の立場、イコール、ブラジル人であって、サッカーのスタイルもブラジルという路線は、ジーコがいれば必然でした」