はじまりは、一冊のノートから
当時、右サイドバックの自分のすぐ横でセンターバックとしてプレーしていたチームメートのヘヴェデスには、試合で起こりうる状況を書いたノートを見せて、チームとしていかにして守るのか、そのルールについてたずねていった。ヘヴェデスはシャルケユース出身のドイツ人選手。彼は多くの外国人選手がチームにやって来るのを見ていたため、加入当初は言葉が通じないのは仕方がないと理解していた。しかし、その中でなんとか状況を改善させようとした内田に対しては、好感を抱き、丁寧に説明していったという。
それによって、内田は守備時におけるチームのルールを理解していった。ここで驚くべきことは、ノートを用いた内田は、中途半端なレベルのドイツ語を介したコミュニケーションをとる選手よりも、深い理解を得られたという事実だ。普通に考えれば、満足のいかないレベルであってもドイツ語を話せる選手のほうがはるかに有利な状況に置かれているのだが、内田はちょっとした工夫で、そんなハンデを軽々と乗り越えてしまったのである。
実は内田と同時期にブンデスリーガにやってきた香川真司には、練習場から試合の日のロッカールームにいたるまで通訳がつくようになり、そのスタイルで成功をおさめたため、香川以降にブンデスリーガにやってきた選手の中で一定の成果をあげている選手のほとんどに通訳がついている。そうした現状があるからこそ、余計に、言葉が思うように通じない状況にひるまなかった内田の姿勢が際立ってくる。
言葉が通じない現状を逆手に取る
内田は言葉が通じない現状を逆手にとることがある。彼のポリシーは、ケガをしようとも、体調を崩そうとも、自らそれを理由に練習を休むことはないということだ。言葉が通じないからこそ、周囲の人間は、自らの性格やプロ選手としての心構えを一つひとつの行動を通して判断しようと目を光らせている。そんな中で内田がとった行動は、周囲から一目置かれるに足るものだった。
例えば2010年7月、チームに合流したばかりのキャンプでの話。他の選手の肘が内田の耳の下に当たり、できた傷口からばい菌が入り、扁桃腺が腫れてしまったことがある。傍目にもわかるようになるまで内田はプレーを続け、ドクターから練習を休むように言われて、初めてケガの治療に乗り出した。あるいは、加入して2ヶ月もたたないうちに代表戦で足の指を骨折してしまった。それでも、シャルケに戻ってくるとすぐに全体の練習に合流した。これには鬼軍曹のニックネームがつくほど恐れられている当時のマガト監督も驚きを隠せなかったという。