U-17で共に戦った選手たちが語る中田英寿
このチームの『キング』であり、10番を背負っていたのは、現在、タイ・プレミアリーグ、BECテロ・ササナでプレーする財前宣之だった。
松田直樹、宮本恒靖、戸田和幸、中田英寿、吉田孝行。タレントのそろったチームだった。しかし、この中でも財前のパス能力は頭抜けていた。天才と呼ばれた。
日本代表の将来の10番候補として期待も高かったが、10代の後半から20代の前半にかけて3度の靭帯断裂が彼を襲う。結局、彼がフル代表に呼ばれることはなかった。
センターフォワードだったのは、194センチの大型フォワード・船越優蔵。
船越も怪我に泣いた。試合中に2度、リハビリ中に1度、都合3度のアキレス腱断裂だった。
チームのキャプテンでボランチの一木太郎も故障で苦しんだ。17歳から19歳まで2年間、サッカー選手として非常に重要な時期にヘルニアでサッカーができず、Jリーガーとしては試合出場なしに終わった。
Jリーグの壁に1年で跳ね飛ばされた藤田聡。ついにJリーガーになることのなかった橋本淳と石本慎。このように書いていくと失敗した人生の記録のように思えるかもしれないが、それはとんでもない話である。詳しくは本編に譲るが、彼らの現役生活の輝き、そしてその後の人生の輝きを書きたくて、僕はこの連載を始めたのだ。
彼らにインタビューしていると、自然に話がひとりの人間のことになった。それが中田英寿だった。
中田は、自分たちが達しえなかった高みに上りつめた
かつて、中田英寿は英雄だった。
とりわけ、1997年にジョホールバルの歓喜を演出して以降の5年間は、まるで昇る太陽のようだった。日本を初のワールドカップに導きながら、クールに「次はJリーグをよろしくお願いします」と言ってみせた20歳の青年は、98年にイタリアに渡ってその真価を見せる。セリエAの舞台でオーバーヘッドを決め、「ユベントスキラー」などと呼ばれる日本人が現れるとは誰もが想像しなかった。2000年のシドニーオリンピックではベスト8躍進の中核になり、2001年にはローマでスクデットを獲得、そして2002年の日韓ワールドカップではベスト16に進出し、個性派揃いのチームの中でも別格の存在感を見せてゲームを仕切った。
僕にとっても中田は英雄だった。
1990年代初頭から僕は海外のマイノリティの取材を始めたが、何事も思うにまかせぬ外国で、慣れない言葉を操って仕事をするのは苦労の連続である。とりわけ1998年には、アボリジニの取材ルートを作るためシドニーで悪戦苦闘していた。この年に中田はイタリアに渡るわけだが、メディアがどのようにセンセーショナルに光の部分を演出しようと、日本人が異国の、しかも世界最高のリーグで戦うことが苦難の連続でないはずはないのである。それらを乗り越えて結果を出した中田には、やはり大きな拍手を送らざるをえなかった。あるいは僕は1993年のU-17日本代表をインタビューしながら、無意識のうちに中田の周りを回っていたのかもしれなかった。
むろん、彼らU-17時代のチームメイトにとっても、中田は英雄だった。自分たちがついに達しえなかった高みに上りつめた者として。
いや、厳密に言えば、彼らには「2人の中田」がいたと言ってもいいだろう。
彼らはもちろん、英雄としての中田の活躍をよく知っていた。自分たちの中から彼のような存在が出たことを誇りに思っている者も多かった。だからこそ、あのチームの話になると中田の話題に触れないわけにはいかなかったのである。