柱谷監督から森保監督に託された塩谷
4年越しの約束がかなえられようとしている。ロンドン五輪に日本中が熱狂していた2012年8月上旬。ともすれば見逃してしまいがちだった無名のJリーガーの移籍に、日本代表の未来が託されていた。
「アイツが日本代表に選ばれなければ、お前の指導力がないということだからな」
熱い檄とともに、入団2年目にしてディフェンスリーダーを務めていたDF塩谷司を託したのは水戸ホーリーホックの柱谷哲二監督(現ガイナーレ鳥取監督)。受け入れるサンフレッチェ広島の森保一監督も、年代別の日本代表経験もなにもない23歳が秘める無限のポテンシャルを見抜いていた。
「僕自身も、日本代表になる選手だと思って彼を見ていました」
オランダ人のハンス・オフト監督に率いられた1990年代前半の日本代表。柱谷は「闘将」の異名とともに最終ラインの中心で群を抜くキャプテンシーを発揮し、森保は「ボランチ」という言葉を日本中に広めた「黒子力」で、個性豊かな選手がそろっていたチームを縁の下で支えた。
日本代表の歴史に必ず刻まれる2人を図らずも魅了し、J2の中位以下が定位置だったホーリーホックからJ1の優勝争いを繰り広げていたサンフレッチェへ完全移籍を果たした塩谷は、波乱万丈に富んだサッカー人生をシンデレラストーリーに塗り替えつつあった。
実際、関塚隆監督に率いられたU-23代表が快進撃を続けていたロンドン五輪を、当時の塩谷はファンのような感覚で見つめていた。
「オリンピックは縁のないものと思っていた。自分の世代のときも、代表チームに呼ばれるようなレベルではなかったので」
本田圭佑や長友佑都、岡崎慎司らが出場した2008年の北京五輪の世代にあたる塩谷は、徳島商業高校から2007年に国士舘大学へ進学した。当時の主戦場はボランチだったが、トップチームの試合に出られるレベルには達していなかった。
3年生のときには、退学中退を周囲の説得で翻意させている。父親がくも膜下出血で急死し、女手ひとつで2人の弟を育てることになった母親の力になりたいと思い、地元・徳島で就職しようと考えたからだ。