当時では珍しかったフットサル専門クラブの門を叩く
時代が昭和から平成に移ったばかりの89年2月16日。三重県安濃町(現津市)の金崎家に5人目の子どもが誕生した。女の子4人をもつ両親にとっては待望の長男誕生だった。
夢生という一風変わった名前がつけられたのは、母・美希子さんの歴史好きがきっかけだ。今から1万2000万年前に太平洋にあったとされる伝説の大陸「ムー大陸」の響きにひかれたことから、漢字を当てて「夢生」と名づけた。「文字通り、夢に生きる子になりましたね」と父・益己さんは笑う。
幼少期の夢生少年はキャッチボール、ドッジボール、縄跳びと運動なら何でもやる子だった。同じ団地に同年代の子どもがいなかったため、歳の近い姉に遊んでもらうことが多かったようだ。両親もすでに4人を育てた経験があって子育てに慣れており、長男にも過度の期待をかけず、「元気に伸び伸びと育ってくれればいい」とだけ考えていたという。
ボールを蹴るようになったのは、安濃小2年のとき。たまたま益己さんが、自宅に入っていた津ラピドフットサルクラブのチラシを見つけたのだ。職場のチームに入るほどのサッカー好きだった父は「これ、どう?」と息子を誘った。夢生少年も「よくわかんないけど行ってみる」と快諾し、2人で20~30分ほど離れた津スポーツセンターへ車を走らせた。
全日本少年フットサル大会(バーモントカップ)の常連である津ラピドFCは94年創立。当時、フットサル専門クラブというのは珍しかった。夢生少年が入る1年前には「日の丸をつける選手を育てよう」と強化クラスもスタートし、彼は入会半年後にテストを受けて強化クラスに入り、より高いレベルでプレーするようになった。
「ボール蹴っているときの夢生はニコニコしててね、顔が全然違うんですわ。だけど、点をとられるとメチャメチャ悔しそうな顔をする。ものすごく負けず嫌いな子だとよくわかりました」と監督の澤田一雄さんは話す。強化クラスに入ったばかりの頃の微笑ましいエピソードがある。
澤田監督が両足裏を交互に使いながらボールタッチするスワップドリブルをさせたところ、彼ひとりだけできなかった。
「お前ひとりだけ、できないやないか!」
怒鳴られた夢生少年は悔し涙を流しながら、これでもかこれでもかと食らいついた。普通の小学2年ならすぐ諦めてしまうもの。しかし、この子は違った。1時間以上もひとりで黙々とトライしつづけた。そんな姿を見ながら澤田監督は光るものを感じたという。