「パス&ゴーの基本ができんのです」
中学時代の本田について上野山は「よくしゃべり、周りの雰囲気を明るくし、サッカーがとことん好きで、ボール扱いもなかなかの選手だった」という印象を抱いている。
「みんなから『圭佑、圭佑』と慕われていたけど、良い意味で、ちゃかされてもいましたよ。テクニックはあるのに、試合では力を発揮できんかったからね」
パスもドリブルも標準以上で、ミニゲームではテクニックを発揮した。ところが、フルコートでの試合になると、途端にボールに絡めなくなってしまう。その要因は「走れない」ことにあった。
「パスを出しても動かない。パス&ゴーの基本ができんのです。原因は、体力面や持久力にあって、すぐバテてしまうし、走るのも遅かった。その点でほかの選手よりも明らかに劣っていて、それが最後まで改善されなかった。
アキも決して走れる選手ではなかったんやけど、スルーパスは出せるし、ドリブルでも簡単に2~3人剥がせる、なんでもできる選手やった。でも、圭佑は基本的にパサーで、そこまで剥がすこともできなかった」
この頃のガンバ大阪ジュニアユースは中盤がダイヤモンド型の4-4-2のフォーメーションを採用していた。
トップ下は、天才・家長の定位置である。そのため、同じくレフティの本田は中盤の左サイドか、左サイドバックを務めることが多かった。しかし、サイドの選手が走れなければ、ボールに絡むのは難しい。
「アキだけじゃなく、ほかにも圭佑より上手い選手が何人もいたから」とも上野山は言う。本田の1学年上には寺田紳一(現横浜FC)がいて、同学年には松岡康暢(現ガンバ大阪アカデミーコーチ)、1学年下には安田がいた。彼らは全員、ユースに昇格したのち、トップチームとプロ契約を結んでいる。
本田から「なんで俺、出られへんの?」「試合に出してほしい」と言われるたびに、現場の監督はその理由を説明したり、ヒントを与えたりした。アカデミーの指導者たちの間でも「なんとかならんかな」という想いが常にあったという。
しかし、本田の持久力、スタミナ、スピードはなかなか伸びなかった。結局、最終学年を迎えてもレギュラーに定着することができず、準レギュラーという立ち位置のままだった。
「そうした状況だから、本人もユースに上がれないことは、うすうす察していたかもしれないね。進路担当者がそのことを告げたとき、納得した様子だったというから」