日本では、スターは守られている
――つまりスペイン代表やバルセロナのような、流動的なパスサッカーということでしょうか。
「日本は日本。スペインではないが、日本もまたパスを回すスタイルで、テクニカルでスピードもあった。しかしフィジカルとアグレッシブさでは、スペインと差があった。スペインは選手たちが積極的に動いて、マークのズレとスペースを作り出す。そしてわずかなスペースでも、正確なテクニックでボールをスピーディに運び、チャンスと見るや中盤の選手が積極的にゴール前までスプリントする。
日本との一番大きな違いはそこだ。日本の最大の力は中盤にあるが、遠藤も俊輔も憲剛も、ゴール前には行かなかった。彼らがペナルティエリアの中でシュートまで絡めば、相手には相当危険な存在になるはずだった。私はそれを期待したが、彼らは後ろに残ったままで、シュートへの意欲を持たなかった」
――どうしてでしょうか?
「気持ちの面でアグレッシブさを欠いていた。守備の負担もあり、彼らはパスを出すのが自分たちの仕事で、シュートは他の選手がすべきことと思い込んでいるふしがあった。思うに彼らは、あまりに早く人気者になってしまったのではないか。それが彼らのキャリアに大きな影響を与えた」
――どういうことですか?
「どんなに才能に恵まれていようと、美辞麗句を並び立てて賞賛されたら選手は自分を見失う。真面目に練習しなくなるし、プレーにも真剣味がなくなる。遠藤のような選手が、そのために最高のキャリアを築けないとしたらとても残念なことだ。
日本には、ある種のスターマニアの傾向がある。スターには触れることができない。彼らにもできないことがあるのは傍から見て明らかにもかかわらず、そのことに触れないし批判もしない。彼らは守られている。
だが、批判されることがまったくなかったら、進歩などありえるはずがない。自分がいいのかどうかすら、知ることができない。新聞の批評を読んで、自分が優れているとようやく分かる。しかしよくないプレーに関して、新聞でも「悪い」とはっきり書かないし、誰もスター選手に対して、敢えて本当のことを言おうとはしない。批判したことを非難されないために、誰も何も言おうとはしない。本物の批判がなければ、進歩はできない。
私に言わせれば、それが進歩のための唯一の道だが、日本では批判することもされることも嫌う。誰も批判されることを喜ばないのはどこでも同じだ。誰もが愛されながら生きたいと願っている。だがそれでも、進歩のために批判を受け入れている」