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【特集・3/11を忘れない】塩釜FC小幡忠義理事長インタビュー ~被災地救援を支えた塩釜FCの絆~(前編)

text by 木村元彦 photo by Tadayoshi Obata

チーム作りではなく人作りがクラブの哲学


クラブOB の加藤久氏(右)、鈴木武一氏(左)も被災地での支援活動を精力的に行っている。中央が小幡忠義氏。

 宮城県全域に渡る広範なエリアで復興作業に関与した村松が今、塩竈の状況に目を見張っている。

「松島と利府町に比べても塩竈の被害は凄まじかった。人も亡くなっている。でも際立って復旧していった。それは塩釜FCの存在だよ。塩竈の災害ボランティアセンターを小幡さんが引き受けたからね。塩竈は県の社会福祉協議会の側から見ても凄かった。小幡さん? 相変わらず、熱くてうざいよ(笑)。

 3月21日に突然、『事務所に来い』と言われて行ってみたら、『復興に向けてのドリームゲームをやる。以上!』だって。僕も忙しいんだけね(笑)。でもね、子供たちを徹底的に信じる姿はすごい。他のセンターなんかは、危ないからといって刃物さえ持たせないのに小幡さんは物資の運搬からドロ出しまで中高生に役割を振ってどんどんやらせた。官とかをあてにせず自分たちで見事に成し遂げた」

 非常時には事象の本質が浮き彫りになる。平時ではヒューマニストに見えた御仁が買占めに走ったり、テレビでおちゃらけていた芸人がいち早く支援物資を運んで名も告げずに去って行く。生と死が交錯する中で一切の虚飾が削がれ、発信するものが剥き出しになるのだ。サッカークラブも同様であった。未曾有の天災の中で、塩釜FCは地域とのかかわりから、一サッカークラブの枠を大きく超えたまさにコミュニティの核となっていた。

 若い頃、肉屋の放蕩息子と言われ、何度も親に勘当された小幡は友人の保証人になったために数千万円の借金を背負って自殺まで考えていた。そんな小幡がボランティアどころか、身銭を切ってただ情熱の限り子ども会から立ち上げた塩釜FCの劇的な成立経緯は拙著『蹴る群れ』(講談社)に記したのでここで多くの行は割かない。

 しかし、サッカー経験の無い野育ちの人間が、何の援助も受けず、ビジネスにする気も無く、ただ子供が好きという一点でJリーグの開幕するはるか29年前に作ったクラブ(1964年当時仁井町スポーツ少年団)が、Jの理念を先取りするかのように実践し、この国難のときに地域に不可欠の存在として機能していることに驚きと感動を禁じ得ない。

 座右の銘は幾つになっても「ガキ大将」。元々は空手家でサッカー協会とは異なる文脈、異なる施策でクラブを運営してきた小幡は、強化育成のあり方ではJユースクラブとは真逆の方法論だったとも言える。それでも結果的に5万8000人の町から15人ものJリーガーを輩出させ、今では宮城県サッカー協会の会長になり、ベガルタ仙台の役員にも就任している。その哲学に学ぶことは少なくないはずである。

 70歳を越えても精悍な身体つき。格式や権威を嫌い、ときに熱い東北弁が混ざるその口調は変わらない。

【後編に続く】

初出:サッカー批評issue51

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